極彩色


【3】 シンボル 

 カナダとパンケーキ。このふたつを結ぶものといえば、思いつくのはひとつだけ。
 メープルシロップだ。
 僕はこの木の名を持つ彼女に恋をしている。
 ……たぶん。
 自分のことなのに「たぶん」なんて付けるのはおかしいけれど、自分には少女漫画的な恋愛感情は存在していないように思う。好きな相手の前であがってドキドキしたりしないし、好きな相手のことを想って眠れぬ夜を過ごしたりもしない。いつでも彼女のことばかりを考えているわけでもない。恋愛の定義って何なんだと僕は尋ねたい。それがはっきりわからない以上、「僕は彼女に恋心を抱いている」という断定した言い方はできない。
 でももちろん、彼女のことは好きか嫌いかと訊かれたら「好き」と答えることはできる。この場合、問題は僕が僕の周囲にいる大半の人間を「好き」だと思っているということだ。心から嫌いだと思う人間には僕はあまり出会ったことがない。
 僕は高校2年生の夏休み、カナダに短期でホームステイしていた。「語学の勉強を」とか、「広い世界を見てみたくて」とか、そういうオーソドックスな理由もないわけじゃなかったが、1番の理由は「呼ばれたから」だった。とても単純なことだ。僕がカナダに行くことになるより2年前、姉も同じ場所に行ってホームステイを体験していた。姉はそこでいたく感銘を受けたらしく(何に対してかは知らない。言葉とか街並みとか、あるいはもっと大きなくくりの何かだろう)、帰国の日に撮ったという記念写真の中の姉の顔はどれも泣き濡れていた。ホストファミリーの側も姉を実の娘のようにかわいがって、帰国後もクリスマスだの誕生日だの、何かにつけてカードを送ってきた。しかし姉は忙しく、心根が醒めている人だった。日本に帰ってきたらもう向こうのことは頭の隅に追いやられてしまい、少しずつ心が離れていくようだった。ホストファミリーの手紙の中では繰り返し姉の再訪を願う言葉が綴られていたが、姉は「私だって会いたいけど時間がないのよ。向こうが日本へ来ればいいのに」とまで言い出す始末だった。
 そんな状況を見るに見かねた両親が、姉の代わりに今度は僕を送り込むことを思いついた。いや、それは本当に最初単なる思い付きでしかなかった。両親もそこまで真剣ではなかったはずだ。しかしその案を聞いた姉がとたんに大プッシュし始めた。きっと、熱望されているのに自分が行けないことを多少なりとも後ろめたく思う気持ちがあったのだろう、せめてもの罪滅ぼしとばかりに僕を行かせることに躍起になったのだ。姉は久しぶりに自分からホストファミリーに手紙を書き、「今度弟がお世話になるかもしれません」とご丁寧にお伺いをたててくれた。ホストは姉がもはや自分で来る気がないのだと悟るやいなや、僕に向かって何通も「おいでおいで」メールを寄越してきた。こうして舞台はととのってしまった。僕は自分の意志とはちょっと言いがたい理由でカナダへ赴いたのだった。
 カナダでもっとも僕が心うたれたのは楓並木の美しさだった。真夏、その姿は青々と瑞々しくつややかにかがやいていた。いや、これは言いすぎだろうか。僕はよく言葉が大げさだと言われるのだ。でも大仰で小難しい言い方が好きなだけで別に悪意はまったくないのをわかってほしい。
 メープルシロップも期待に違わず、さすが本場だけあってうまかった。日本でも輸入ものは手に入るけれど、やはりあの風土で食さねば本当の良さはわからないものだと思う。文化は地域に根付いているものだから。
 三日前、またホストファミリーから手紙が届いた。たまたまその時恋人の楓さんもその場にいて、同封されていたカナダの風景が映った写真を見て嘆息していた。どうやら遠いカナダの風景に思いを馳せているみたいだった。いつか一緒に行けたらな、と彼女は小さな声で呟いた。そうだね、と何の気なしに僕が答えたら、楓さんはなぜか真っ赤になってしまった。
 そして今日も僕の部屋で僕の近くにいる楓さん。さっきからキッチンに立ち動き回っている。ちょっとするとリビングへ戻ってきて、小さなテーブルに焼きたてのパンケーキを置いた。バターとメープルシロップもちゃんとかかっている。
「カナダに行けるのはまだ先になりそうだから、とりあえず、カナダの気分だけでも」
 カナダとパンケーキを結ぶものがメープルシロップなのだとしたら、僕と楓さんを結んでいるものは何なんだろう。僕がそんなことをひょっと思いついて、考え込んで黙っていると、楓さんは何か勘違いしたみたいでまた少し頬を染めて言った。
「パンケーキくらいじゃ全然、全然だよね、カナダの気分になんてなんないよね」
 僕は悪戯を思いついた子どものようにニヤっと笑った。
「そうだよ、パンケーキはカナダで食べてこそうまいんだ。だから今度あっちで一緒に食べよう」



最終更新日:2003.12.25

あとがき
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