グレイッシュ・スイーツ


  私の左手はからっぽだ。つい三日前までそこが指定席だった彼の右手も、今は遠く離れてしまった。どんなに重い荷物を右手に持っていても、常に左へ傾いていた私の身体は、早くも右肩下がりになりつつある。しかしそれは左手がからっぽのままで、まだ何も持てず、まだ何にも繋がれないでいるからだ。
  秋が背を向けて去っていくかのように陽が落ちて、途端に窓の外は真っ暗な空に支配された。街の喧騒も、鳥や虫の音もふいに途切れて、異様なほどの静けさが訪れた。広さ三畳ほどの自分の部屋で、ただひとり床に座ってじっとしていると、広い地球の上で自分だけが地上から切り離されてぽかんと浮いているような、何だかそんなへんな気がしてくる。階下では母親が夕餉の支度をし、弟がテレビゲームに興じていることは頭でわかっているのに、どうしてそんなふうに思うんだろう。自分以外の誰かが同じ世界で息をしているということが、どうしても現実なのだとは思えないのだった。
  部屋の中を見回してみた。何度見ても、景色はひとつも変わることがなかった。私は立ち上がって、もう一度見回してみた。ふと、机の上の文具入れが目につく。小学生の時、初めて友達同士でディズニーランドへ出かけた時のおみやげだった。「アラジンの魔法のランプ」に出てくるランプの精・ジーニーの顔をかたどった、ファンタジック・ワン。愛嬌たっぷりにウインクしているその顔のてっぺんがフタになっていて、中にはもともとキャンディが入っていた。中身がなくなった後、私はその入れ物のフタを取り外して、ペンやら定規やらを無造作に突っ込んで使っていた。窓の外の街灯が弱く光を放ち、プラスチックの定規がそれを反射している。次の瞬間、その横でコンパスやカッターが鈍く存在を主張しているのが私の目に飛びこんできた。
  なぜかぎくりとして、私は咄嗟にそこから目をそらした。しかしその先には窓があって、外の暗闇に私の姿をぼんやりと映し出していた。窓に映った私は、目の下の影が妙に色濃く、顔は蒼ざめて、見知らぬ者の顔をして私を見返していた。
  まるで彼女みたい……。
もう一度、ゆっくりと視線を机の上に戻す。変わらずそこには刃物が在った。私は刃物を見据える。睨んでいたといってもいい。もう視線をそらすことができず、かといってそこから近づくことも遠ざかることもせず、ただ金縛りにあったように身を硬くしていた。
  しばらくして、網戸ごしに窓の外で車のクラクションが響いた。それを合図のようにして、夜のざわめきが戻ってくる。私はもう一度その場に座り込み、ゆっくりとまぶたを閉じた。目の奥が焼けるように痛んだ。
  友人の一人が自傷を告白したのはもう四年近く前、高校二年生の冬頃だったと思う。彼女とは特に仲が良かったわけではないが、たまたま小中高とずっと同じ学校に通ったので「なんとなく」幼なじみということになっていた。何がきっかけでそんな話になったのかは覚えていない。それどころか、その場に私の他にも誰かいたのか、どうして私が彼女と一緒に居たのか、といったその時の状況すらまったく思い出せない。ただ、なぜか鮮明に覚えているのは、電車のドアに寄りかかり、だるそうに口を開いた彼女の首の白さと、彼女の発したこの言葉だけだ。
「腕は切らない。傷痕がめだつから。いつも脚を切るんだけど、おかげで肌がボロボロよ」
  彼女はうつろな視線を自らの脚に向けた。色素の薄い彼女の瞳は、私には曇って見えた。
  彼女とは高校を卒業してから連絡を取っていないし、今のところどこかでばったり会うということもない。ただ、今でも彼女の存在が私の中で強烈なインパクトを持って焼きついているのは、この記憶が残っているせいなのだろう。電車でドアに背もたれて立つ若い女性を見るたびに、彼女の姿が二重うつしに見えて、私はどきりとさせられる。
  階下から夕飯を告げる母の声が聞こえた。リビングへ降りていくと、いるはずだと思っていた弟の姿はなく、代わりにテレビのニュース番組がつけっぱなしになっていた。そのままにして見ながら母とふたりで夕飯を食べていると、「キレる子どもたち」という特集が始まった。母がふと思い出したように言う。
「智弘、耳がきこえないって言うのよ」
  え、と私は聞き返した。
「夕方、学校から帰って来ていつも通りテレビゲームを始めたんだけど、なんだかすぐやめちゃってね。どうしたのって、三回くらい大声で訊いたらやっと振り返って、音がきこえづらいんだって。疲れたから寝るって部屋にこもってそれっきり。ねえ、お姉ちゃんとしてはどう思う? 本当に耳がきこえないのかしら? それとも、もしかしたらもう反抗期だから、親の言うことがきこえないフリをしてるだけなんじゃないかしらねえ?」
「さあ……。しばらく様子を見てみるしかないんじゃないの」
  口をつけたお味噌汁の味はしょっぱかった。りんごジュースで口直しをする私に、母が呆れた視線を向けた。
  翌朝、大学の講義は午後からだったので私はかなり遅くに目覚めた。もう父も母も出かけた後のリビングで、トーストを焼いて食べていたら、パジャマ姿の弟がのっそり現れた。本来ならとっくに学校に行っているはずの時刻だった。弟はうつむきがちに私の視界を横切ると、洗面所へ消えた。室内に水音が響き、やがてやむ。
「ほんとに耳、きこえないの」
  リビングの椅子に座ったまま、洗面所へ向かって呼びかけた。返事はない。
  トーストの最後のひとくちに、たっぷりのイチゴジャムを塗りたくった。それをほおばっていると、いつのまにやら傍に弟がやってきて、私を上から見下ろし、言った。
「そんなに糖分とったら太るよ、ねえちゃん」
  いつも通りの癇に障るその物言いに、私は二言三言、きつい言葉を応酬してやった。しかし彼は、言葉を失ったようにしばらく何も言い返してこなかった。何も見えていないかのように、瞳の焦点が合っていない。私は急に不安になって、「どうしたの」と上目遣いで訊ねた。彼はそこでやっとまともに私の顔を見て、何か痛みを堪えるように顔を歪めた。
「やっぱりきこえない……。オレどうしちゃったんだろう」
  母の危惧は、残念ながらと言うべきかどうやらはずれたようだったので、私は弟に保険証を持たせてとりあえず医者へやった。しかし彼は二分も経たないうちに帰ってきて、黙って玄関に突っ立っている。仕方ないので私もコートを羽織り、弟の腕を取って外へ出た。
  医師の診断では、ストレスによる一時的な難聴である疑いが強いということだった。治るのかと尋ねたら、突発性難聴は初期段階に治療すれば大抵は回復するという。
「急に耳がきこえなくなる場合って、片耳だけのケースが多いんだけど、弟さんの場合は両耳にきてるみたいだね。でも逆にそれが早期発見につながったんだから、良かったかもしれないよ。片耳だけきこえなくなると、なまじもう片方の耳がきこえちゃうもんだからね、なかなか難聴になったことを自覚できなくて、結果的には治療開始が遅れて回復不能になってしまうこともある。まあいきなり耳がきこえなくなったら不安だろうし実際不便だろうけどね、あんまり思いつめないで今はとにかくゆっくり休養すること。安静が第一の病気だよ。あと薬ね、ステロイド剤とビタミン剤を出しておきますから」
  帰る道すがら、黙り込んでいる弟に小声でぽつりと話しかけた。
「智弘、病気になっちゃうほどのストレスがあったの」
  彼にはやはり私の声がきこえていないようだったが、気配を感じてこちらを流し見た。姉弟で並んで外を歩くなんて随分ひさしぶりな気がする。ここ二、三年で彼の背はぐんと伸びていた。知らない人が見たら私のほうが年下に見えるかもしれない。
「ねえ、もしかしたら私たち恋人同士に見えるかな?」
  ふざけて彼の右手をとった。すぐに振り払われるだろうと思ったのだが、意外にも私の左手は家に帰るまでそのままだった。

  智弘はキレイな子だ。男の子なのに高校二年生にもなってそんな言われ方をしたら本人は怒るかもしれないが、彼の端正な顔立ちは実際に世間も認めるところだった。小さい頃は私よりもよっぽど周囲に「可愛い」を連発されていたと思う。血のつながった姉弟でありながら私と弟はちっとも似ていないのである。私だけではない。彼は両親のどちらにもほとんど似ていなかった。強いていえば死んだ母方の祖父の面影があるそうだが、私は会ったこともないのでわからない。両親はよく言っていた。「トンビがタカを産むっていうのはこのことだ」と。自分たちでも半ば信じられない気持ちがあったらしい。
  それだけ容姿端麗で、更に彼は比較的スポーツも得意だったので、女の子たちが放っておくわけがなかった。彼が高校に入学して一週間で女の子に告白された時には、我が家はちょっとした騒ぎになった。彼は告白にオーケーしてその女の子とつきあい始めたが、しかし五月にはもう別れていた。「どうして?」と訊いたら実に簡単な答えが返ってきた。
「別れたいって言われたから」
  特にショックを受けている様子も見られなかった。彼はその後も、「つきあって」と言われれば(相手の女の子がよっぽど趣味に合わないという場合を除き)そのままつきあって、「別れて」と言われたら別れる、ということを繰り返していた。この一年半で相手はおもしろいほどころころ変わった。こんな「プレイボーイ」、漫画の中にしかいないと思っていた私は、弟が現実にそんなことをしているのですっかり呆れ果ててしまった。ただ罪なことに、彼に悪意はまったくなかった。頼まれた事をただ毎回引き受けていただけ、なのである。ある意味でそれは、彼の中では慈善事業みたいなものだったのかもしれない。
  智弘は耳がきこえなくなってから高校を休み始めた。毎日欠かすことがなかった部活の練習にも行かなかった。ほとんど外には出ず、家の中でゲームをしたり漫画を読んだり、数日間は黙って静かに暮らしていた。しかし三日目に再び医者に行ったら、「耳だけじゃなくて目も休ませなくちゃダメだ」と怒られたらしく、彼は家の中ですることがなくなってしまったようだった。翌日は平日だったが私は大学の講義がない日だったので、彼を誘い出して近くまで散歩に出かけることにした。
  どちらが行こうと言い出したわけでもないが、なんとなく新宿御苑に足が向いた。まだふたりが幼かった頃、休日には家族でよくここへ来たものだった。庭がない我が家にとっては、ここがそのつとめを果たしていたのだ。あの頃より大きくなった私たちは、もう芝生の上ではしゃぐことはせずに、冬の陽射しの中ぼんやりと座っていた。
  私が座ったままウトウトし始めた時、ふいに智弘が言った。
「彼女と何回か来たんだよ、ここ」
  私は黙っていた。風がさらう髪をかきあげ耳にかける。
「つきあい始めてしばらく経ったら、一度はここに誘うの。でもオレ、ここに来るとなんかいつも無口になっちゃって、ここでデートした帰りはたいてい険悪な感じになってたな」
  その後、彼を疲れさせてはいけないので私はまっすぐ帰ろうとしたのだが、途中で彼は近所の大手スーパーに寄りたいと言い出した。何か買いたいものがあるのかと思って後をついていったら、彼は迷わずエレベーターで屋上に向かった。そこは子連れの買い物客が子どもを遊ばせておくためのスペースで、ゲームやすべり台、トランポリンなどがあり、ゲームセンターと公園を足して二で割ったような場所だった。隅のほうにはアイスクリーム屋さんまである。ここも幼い時によく連れてこられた。およそ十五年ぶりに来たが、さすがにだいぶ様変わりしていた。屋上のスペースの半分は立ち入り禁止になっていたし、よく遊んだ遊具も新品に取り替えられていたり、既になくなったりしているものがほとんどだった。しかし当時と変わらず残っているものもあって、それはアイスクリーム屋さんの古ぼけて判読不能になっている看板と、その脇にあるベンチだった。私たちはアイスをひとつずつ買い、ベンチに腰かけた。屋上はひどく寂れていて、他には誰もいなかった。
  夕暮れの冷たい風が時折びゅうと唸りをあげた。アイスを食べ終わると智弘は無言で立ち上がって、ひとりでゲームをやり始めた。彼はとても器用にゲームをクリアし、景品のキャンディをたくさん取って私にくれた。そのあと彼は、置き忘れられたままになっているような遊具たちのほうへ歩いていった。彼は馬の形をかたどった乗り物を選び、その背にまたがると、首のあたりについている穴に百円硬貨を投入した。馬の乗り物は鈍い音を発しながら前後に揺れ動き始めた。一分くらいすると自然に止まった。私はその様子をずっとベンチに座って眺めていたが、彼はほんの少しも楽しそうではなかった。ベンチの前まで戻ってくると、やはり黙ったまま私の手をとり、出口のほうへ引っ張っていった。私はその手を振り払わなかった。
  その夜、布団にもぐってからも眠りはやってこず、私は暗闇に目を凝らしていた。いつもならバイクのエンジン音や、救急車のサイレンが時折きこえるのに、今夜はまったくの静寂。世界が完全に沈黙していた。
  突然、天井に赤や緑の光が飛び散った。何が起きたのか理解するまでに数瞬を要した。机の上に置いてあった私の携帯電話がメールを着信して光ったのだった。こんな時間に連絡が来るなんて何か緊急の用かもしれないと思い、起き上がってメールを見た。メールの送信者は、隣の部屋で眠っているはずの智弘になっていた。
『まだ起きてるでしょ? 窓の外、みて』
  暗がりの中、手探りで窓をあけた。途端に冬の夜の冷気が部屋にすべりこむ。それでも頭を突き出して外を見てみると、澄みきった空に星がいくつか瞬いていた。視線を感じて左を向くと、数メートル先で隣の部屋の窓から同じように顔をのぞかせている智弘がこちらを見ていた。彼は手に持っていた携帯の画面を見ながら何か入力し始めた。しばらくするとまた私の携帯が光った。
『またアイス食べに行こうよ』
  私たちは月が西に傾いていくのをいつまでも眺めていた。
  その日から私は大学を休み始めた。毎晩わたしたちは携帯メールでのたわいもない話をまじえながら、明け方ちかくまで一緒に星を見ていた。それから朝すこし眠り、昼ごろ起き出して、あのスーパーの屋上でぼんやりと午後を過ごす。それはほんの一週間ほどの短い時間だったけれども、私たちには永遠のような日々だった。
  おわりはある日突然やってきた。しかし本当のところ、はじめから永遠などどこにもなくて、私たちがどうしていようと、時はどんどん過ぎていたというだけのことなのだろう。
智弘の耳は徐々に回復してきていた。その日はもうすでに、よっぽどの小声でなければ普通の会話ができるほどだった。けれども私たちは、その回復ぶりについてはあえて言及しないでいた。ただアイスクリーム屋さんのベンチにじっと座って、馬やゾウのかたちした乗り物たちが放っておかれたまま古くなっていくのを見ていた。
  どれくらい時間がたったのか、なんの前触れもなくいきなり屋上のドアが開いた。そこへ人がやってくること自体があまりないことだったので、驚いて見ると、買い物袋を提げた若い男性がドアを開けて屋上に足を踏み入れたところだった。彼は気遣うように背後を振り返り、ドアを開けたままにしてやる。そして彼に続いて、同じ年ごろの若い女性がゆっくりと姿を現した。私はおもわず彼女をじっと見つめてしまった。彼女のおなかは大きかったのだ。
  夫婦らしいふたりは屋上をきょろきょろと見回した。私たちとも目が合った。すると彼女はにっこりした。ふたりはこちらへやってきた。何か言われるのかと身構えたが、彼らはアイスを買っただけで私たちに向かっては何も言わなかった。
  弟が立ち上がった。ごく小声で「席、換わらなきゃ」とだけ言った。私たちは若い夫婦に席を譲ると、そのままスーパーの屋上をあとにし、以後一度もここへ訪れることはなかった。それで私たちの日々はあっけなく終わりを告げた。
  弟は再び学校へ行き始めた。まだ耳には多少の難があるらしいが、九割がたは回復したらしい。私たちはもうどこへもふたりだけで出かけないし、夜中に顔を見ながらメールしたりしないし、もちろん手をつなぐこともない。ただひとつだけ、以前と変わったことがあるとすれば、それは甘いものを好む私を弟がとがめなくなったことだけだ。
  ジーニーの頭の中には今、再びキャンディが詰まっている。
-了-
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