雲よりも遠く


【1】 

 高架線の下から出ると、強い陽の光が目を射した。僕は自転車をこぐ足を止めて、帽子を目深にかぶり直した。ひさしの縁からのぞいた空は、嫌になるほど青く晴れ渡っている。僕はジーンズのポケットから一枚の紙切れを取り出した。その紙切れにはこう書いてあった。
「追伸 何かあったら、いつでもお母さんの所においで。智則さんも歓迎するって言っています。住所は、世田谷区砧五―十七―十 たいよう印刷の角を左に曲がって、二番目の家です。表札に小泉とあるから、来ればわかるはず」
 汗でむれて頭がむず痒かった。左手で自転車が倒れないようにして、右手で帽子の上から頭を乱暴に掻きむしった。辺りを見回すと砧五丁目という表示があった。そのまま道沿いに真っ直ぐ行くと、程なくして「たいよう印刷」という控えめな大きさの看板が見えてきた。角を左に曲がって、二番目の家。……あった。「小泉」の表札だ。
 思いのほかあっさりたどり着けたことに、自分でも少々驚いた。ここに、母がいる。そう考えると、わずかに心臓が跳ね上がった。この一年というもの、実の母親に一目も会っていないなんて不思議な感じだ。それは耐えがたかったような気もするし、案外普通に過ごせていたような気もする。どちらにしろこの一年間のことはよく思い出せない。ただひたすら高校受験のことに没頭して過ごしていた。
 母に会いに来たというのに、いざとなると目の前の呼び鈴を押すのが躊躇われた。新しい白塗りの壁、普通の塀より二十センチくらい高い石造りの門扉、それに何より「小泉」という自分のものでない姓は、ここが僕のうちじゃないことを、否が応にも思い起こさせる。僕はこの家に拒否されている。そんな気がした。
 随分長い間悩んだような気もしたが、実際はほんの数十秒だったろう。あまりに強い夏の陽射しが、僕の脳をとろかし始めた。もう思い悩んでいるのが億劫だった。ここまで来たんだから当たって砕けろ、だ。
 高鳴る胸を押さえながらインターホンを押すと、大声で「はあい」と返事する声と、家の中を歩き回る重めの足音が聞こえてきた。と、突然、家のドアがガチャッと音を立てた。湿気を含んだ重い夏の空気を軽やかに切って、ドアが開いた。ドアの向こうには、一年ぶりに見る母の姿があった。
 カチャカチャという食器のぶつかり合う音が、妙に耳につく。食器洗いはそもそも好きな家事ではないけれど、今日はまたいつにもまして面倒に思えるのは何故だろう。ふと視線をうつすと、夕飯の材料が入ったスーパーの袋が、台所の隅でいじけている。今日のメニューはハンバーグだった。僕が作ると言ったのに、父は早く食いたいから冷凍食品のでいいよ、と勝手に冷凍室から冷凍ハンバーグを取り出して、電子レンジに入れてしまったのだ。
 「おい裕一、悪い、お茶淹れてくれ」
 リビングでテレビを観ている父が大声を出した。父自身はテレビの音量に邪魔されて気づいていないかもしれないが、男ふたりの狭いマンションでは、案外大きく響いた。
 熱いほうじ茶を淹れてリビングに持っていくと、父は「サンキュ」と言って湯飲みを受け取った。父は湯飲みには口をつけず、テレビの方を見ながら何気なく言った。
「そういやお前、今日どこ行ってたんだ」
 僕はあまり聞かれたくないことを聞かれたので、思わずびくっと反応してしまった。僕が答えに詰まっていると、父は僕を横目でじろりと見た。
「俺より帰りが遅くなるなんて珍しいじゃないか。ま、言いたくないなら無理に言うこともないが。……なんだ、女でもできたんか」
 言うべきか否か、一瞬迷った。しかし意を決して、僕は父に向き直った。
「うん。でも会ってたのは『僕の』じゃなくて、『父さんの』女」
「は……俺の?」
「だから、母さんだよ。今日、あっちの家まで行ってきたんだ」
 父は大きく目を見開いて僕を見た。それから視線を落として、ちょっと何か考え込むような様子をしていた。僕は動くに動けずその場に突っ立っていた。怒られるのかな、と思った。やがて父は顔を上げて、僕の目を見据えながら、言った。
「あっちの家まで勝手に押しかけることは、止めてあったはずだけどな。会いたい時は俺を通すようにって。今までもそうしてきただろ?それに、今は俺の女じゃないよ。あっちは再婚したんだから」
 それは静かな口調だったが、なんともいえない複雑な感情の色合いを帯びていた。一番色濃いのは「諦め」だろうか。
 両親が離婚し僕が父に引き取られたのは、小学校三年の時だった。形としては協議離婚だったので、僕が母に会いたいと言えば父は会わせてくれた。ただし会う時間も場所も両親が事前に相談して決めていた。場所はだいたい最寄り駅の前の喫茶店だった。母が僕らの住んでいるマンションまで来ることはなかったし、僕らが母の住んでいる所まで行くことも決してなかった。母が再婚したのは去年の話。それ以来、僕が母の話をしようとすると、父はさり気なく話をかわしてしまうようになった。「母に会いたい」と言うのが、なんとなく気まずい雰囲気になっていた。それで結局、僕が受験生だったこともあって、この一年は母に一目も会わなかった。高校に入ってからはまた忙しかったのだが、心の余裕は出てきたので時々母のことを考えるようになった。夏休み中はずっと思い悩んでいた。母が再婚した際に連絡してくれた新住所に、ひとりで訪ねてみようかと。僕はそう考えるだけで、実際に行動に起こせないでいたが、とうとう夏休み最後の日になり、とにかく住所を頼りにして行くだけ行ってみようと思い立った。見つからなかったらその時はその時だ。そして結果は、幸か不幸か成功した。
 僕は答えた。
「別に子どもが母親に会いに行くことは悪いことじゃないだろ。母さんに料理のことで聞きたいことも溜まってきてたし……父さんに黙っていくのはちょっと後ろめたくもあったけど、父さんが僕を止めるのは理不尽だとも思った。僕だってもう高校生になったんだから、自分のことを自分で決めたっていいはずじゃないか」
 父は腕組みして、「そりゃまあ、そうだが」とか何とかぶつぶつ言った。それから、
「それで?母さんは何か?」
と尋ねた。
「いや……別に。高校合格おめでとうって言われたのと、近況を訊かれたくらいで、あとは特には何も。お茶菓子出されて、小遣いもらって、帰ってきた」
「智則くんは?いなかったか」
「いたよ」
「何か言われなかったか」
「え?よく来たね、とか、背伸びたね、とか、それくらいしか喋ってないけど」
「迷惑そうな顔はされなかったか」
「別に普通だったよ。ってか、何なんだよ、そんなに質問攻めにして。そもそもどうして僕が母さんに会いにいくのを許してくれなかったわけ?納得いかないよ」
「許さないなんて一回も言った覚えはないぞ」
「でもいつだって『次の機会にしよう』ってはぐらかしてたじゃないか」
「それは、新婚さんの邪魔をしたらいけないと思ったからだよ。まあとにかく、今日は邪険にされなかったんなら良かったな」
 何だか釈然としないものが残ったが、とりあえず納得しておくことにした。それから皿洗いを済ませて、自分の部屋に戻った。入る時に内側から鍵を掛けた。マンションの四階での男のふたり暮らしなのだから、鍵なんていらないと最初は思っていた。最初とは、父とここに住み始めた小学校三年生の頃だ。しかし今は、鍵がついていて良かったと心から思う。ひとりでいるのがたまらなく寂しいと感じることもあるが、ひとりきりになりたいと願うことも同じくらいよくあるから。
 僕はベッドに腰掛けて、しばらくの間ぼんやりとしていた。開け放してあった窓から夜風がすうっと吹き込んできて、カーテンをふわふわ揺らした。時々大きくはためいてのぞかせる夜空は、煙が覆っているかのように灰色がかって見えた。ベッドに体を横たえてみたが、今夜も熱帯夜で、暑くて眠るどころではない。ごろごろと寝返りをうちながら、僕は今日あったことを思い返していた。
 「まあ、裕ちゃん!どうしたの突然。……まあいいわ、とにかくあがんなさいよ、そこじゃ暑くて立ち話もできないでしょ」
 一年ぶりに再会した母は、そう言って僕を出迎えた。家に上がると、新築の建物特有の匂いがかすかにした。廊下の床板も壁も、木材がまだぴかぴか光っていた。そこでなんとなく嫌な予感はしたのだ。しかし僕はまだその嫌な予感の正体に気づけないでいた。今思えば、なんと僕は鈍くて気の回らない奴だったことか。わかってしまえばこんな簡単なことだったのに。
 リビングに通されて、ソファに落ち着いた。母が冷えた麦茶と羊羹を出してくれた。このちぐはぐな感じを気にかけないあたり、何だか母さんらしいなと思った。母は僕の向かいに座って、頬杖をつきながら僕に質問を浴びせ始めた。
「どうして突然訪ねてくる気になったの?高校はどう?何かクラブに入った?友達はできた?先生は?校則は厳しい?パパはどうしてるの?好きな子できた?……」
 僕は麦茶と羊羹の合間にひとつずつ質問に答えていった。といっても、ほとんど答えはどれも同じだ。「まあ」とか「別に」とか。要するに答えになっちゃいなかったのだが、母は特に気に留める様子はなかった。母は笑顔を絶やさず、羊羹は程よい甘さで、僕は過ぎていく時間にまったりと浸かっていた。
 ふいに、リビングのドアが開いた。
「聖美、寝室の棚が……」
 ドアの隙間から顔を出してそう言ったのは、母の再婚相手である智則さんだった。前に一度だけ対面させられたことがある。僕がまだ小学生だった頃のことだ。智則さんは母より十一歳年下で、まだ三十代になったばかりだ。仕事は確かコンピューター関連とか言っていただろうか。詳しくは知らない。僕の父はごく一般的なサラリーマンをやっているので、「一家の大黒柱」が平日の昼間に在宅しているなんて、思いもよらなかった。
 驚いたのは僕だけではなかったようで、智則さんも突然の来訪者に目を丸くしていた。僕が来たことに気づいていなかったらしい。
 母が僕を紹介した。
「前に一度会ったことがあると思うけど、まだ覚えてる?前の夫との間の息子よ。遊びに来たの」
 ああ、と膝をうって、智則さんは破顔一笑した。彼はまだ僕の名前を覚えていた。大きくなったな、なんて当たり障りのないことを言って、またすぐ母に向き合った。
「ねえ、寝室の棚なんだけど、ちょっと見てくれるかい」
「わかったわ。裕ちゃんちょっと待ってて」
 ふたりは二階へ行ってしまい、僕はひとりリビングに残された。何もすることがなくて、とりあえず部屋の中を見回してみる。キッチンとつながったリビングの広さは、十数畳あるだろうか。三十二型のテレビ、洋画の名作が名を連ねているビデオの棚、デザインの斬新なパソコンとデスク、エレクトーン。何もかも整然と整理されて、あるべき場所にきちんとしまわれている。でもきれいすぎて生活感がないかといえばそんなこともなくて、必要なものが必要なだけ揃っているといった感じだった。時に足の踏み場もないほど荒んだ状態になる我が家とは大違いだった。窓の外に目を向けると、風鈴がふたつぶら下がって揺れているのが見えた。ひとつは金魚の柄、もうひとつは海辺の絵が描いてあった。窓は締め切ってあるので音は聞こえなかったが、それはまるで金魚が宙の海をゆらゆら泳いでいるようだった。しばらく風鈴を見つめていたが、母はなかなか戻ってこなかった。テレビの上に置かれた鳩形の時計に目をやると、四時前だった。
 僕は様子を見ようと思い、こっそり二階へ上がった。「こっそり」したのは夫妻の邪魔をしないようにしただけで、別に他意があったわけじゃない。階段を上がって左手に見えたドアの内側から、話し声がした。
「そうだね。となると、やっぱり模様替えの必要がありそうだ」
「まずは棚の移動かしら。でもとりあえず本を全部出してしまわないと無理でしょうね。ついでにいらない本の整理もしちゃいましょうか」
「じゃあそれは僕がやっておくよ。へそくりを見つけられたらたまんないからね」
「あらやだわ。そのへそくりで私にリングを買ってくれるつもりなんでしょ」
 くすくす笑い合う声が壁越しに聞こえてきた。僕は階下へ戻った。傾斜の急な階段で、足を踏み外しそうになった。
 程なくして母もリビングに戻ってきた。僕はメモしてきてあった料理に関する質問を母にぶつけ、母はてきぱきとそれに答えていった。だいたい疑問が解決したところでいとまを告げると、母はお小遣いを僕に手渡し、「お父さんによろしくね」と言った。五千円札を渡そうとして母が間近に迫った瞬間に、僕は気がついてしまった。母の瞼に、うっすらと赤いアイシャドウがのっていたこと。それが僕をやりきれない気持ちにさせた。誰のための化粧なのかは明らかだった。僕はそこに何の関わりもない――。
最終更新日:2003.10.10

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