雲よりも遠く
【2】
翌日は二学期の始業式だった。昨夜よく眠れなかったために寝坊して、少し遅刻した。始業式が終わって講堂から教室へ戻ると、二学期の委員会決めで、僕は新学期早々遅刻した罰として、「生活環境委員会」の委員に推薦されてしまった。生活環境委員は、教室に飾ってある花の世話をしたり、掃除する時皆に指示を出したりする役職だ。といっても実際の仕事はほとんど雑用で、電灯が切れたら「生活環境委員、代えて」と言われ、掃除がなっていない時には「生活環境委員、やり直しといて」と言われる。要するに、皆が押し付けあう、「他の人にやってほしい役職」なのである。僕だってやりたくないので多少渋ったが、他に自立者もいなかったので結局僕に決定してしまった。委員は各クラスで二名ずつ選出することになっているので、もう一人は誰になるのかと思って見ていたら、一学期もこの委員をやっていた橋本さゆりになった。放課後、帰り仕度をしていた僕の所に彼女がやってきた。
「委員の仕事のことなんだけど。先生が、来週の頭から教室に花を飾るようにって。花は委員が買いに行って、領収書をもらってきて、後で委員会の経費で落とすことになってるの。あさっての日曜日に買いに行こうと思うのだけど、北村くんも暇なら一緒に行かない?最初だから一応やり方を説明したいし」
僕は何の予定もなかったので、ご一緒することになった。
日曜日はぱっとしない天気だった。家を出る時に傘が必要かどうか迷って、結局持って出かけた。時間ぴったりに待ち合わせ場所に到着したのだが、既に彼女は来て待っていた。僕らはまっすぐ花屋に向かい、つつがなく花を買い終えた。花は彼女が選んだ。僕は金魚のフンよろしく彼女にくっついて行って、彼女の仕事ぶりを見物していただけである。彼女が選んだのは彼岸花だった。花屋の店員はコスモスとか桔梗とか竜胆といった、色の淡い愛らしい花を勧めていたが、彼女はなぜか頑として聞かなかった。
「赤は目が覚める色なんですって。夏ボケのクラスにはぴったりだと思うんです」
花屋からの帰り道、彼女が今日中に学校に行って教室に花を飾ってしまおうと言い出し、僕らはそのまま学校に行くことになった。
橋本さゆりは非常に真面目な性格だった。委員で一緒になるまでろくに話したこともなかったのだが、いつも険しい顔をしている、という印象は以前から持っていた。彼女と一緒じゃ、仕事に手を抜くことなんてとても出来そうにない。委員のパートナーが彼女と決まった瞬間から、僕はそう観念していた。
僕ら以外誰もいない静かな教室で、彼岸花を花瓶にさしながら、彼女は「白状しちゃうとね」と前置きして言った。
「さっきは店員さんにあんなことを言ったけど、本当は単に私がこの花が好きなだけなんだ。これって、職権乱用かなあ」
「……どっちかっていうと公私混同でしょ」
「そうかもしれない。みんなには内緒ね」
そう言って笑った彼女は、案外融通が利く性格なのかもしれなかった。
「大丈夫、そんなの誰も気にしやしないよ」
彼女を相手にして張り詰めていた気持ちが、少しやわらいでいくのを感じた。
彼女と別れ、帰宅すると、父が台所に立っていた。不精な父が自ら家事をするなんて珍しいことなので、僕は軽く目を瞠った。
「何作ってんの」
父は入り口に立つ僕に背を向けたまま、「おつまみ」と答えた。「何か手伝う?」と重ねて尋ねると、にんじんを切るように言われた。野菜スティックを作るつもりらしい。ふたりで台所に並んでいるのは、慣れないせいか妙な感じだった。しばらくはトントントンという、包丁がまな板にぶつかる音だけが続いていた。やがて父がひっそりと口を開いた。
「今日はどこに行ってた?」
何気なく装っているけれど、有無を言わさず答えを要求する言い方だった。その質問は、母を訪ねた一件で、僕に信用がなくなったことを示しているような気がした。父は、また僕が黙って母に会いに行ったんじゃないかと疑っているのか?
「学校の用事があって、花屋に行ってただけだよ」
僕はどうしても返事がぶっきら棒になってしまうのを止められなかった。父は「そうか」と短く返事をしただけで、それ以上何も突っ込まなかった。沈黙が胸にのしかかってくるのを感じた。
少し息苦しくて視線を上げると、汚れきった換気扇が目に入った。外は無風らしく、ぴくりとも動かない。夕方とはいえ狭い台所の中は蒸し暑く、空気が澱んでいるようだった。僕はだんだん気分が悪くなってきた。包丁を握った右手が白い。ふと気づくと、いつのまに切ったのか、親指から出血していた。痛みは感じなかったが、鮮血がとめどなく傷口から溢れ出していた。何だか右手が自分のものじゃなくなったようで、ぞっとした。手の中の刃物が、急にやたらと危険なもののような気がしてくる。僕はとうとうにんじんを切る手を止めて、口元を押さえた。めまいと吐き気が同時に僕を襲った。
「どうかしたか」
父が異変に気づいて僕に声をかけたようだったが、その言葉が終わる前に僕は台所の外へと駆け出していた。
トイレに籠って吐こうとしたが何も出てこなかった。トイレから出ると父が心配そうな顔で待ち受けていたが、僕はまた父を無視して自分の部屋に戻った。
ベッドに倒れこむと、頬がかっかしてくるのを感じた。熱があるのかもしれない。コンコンと、部屋のドアをノックする音が聞こえた。父がドア越しに「どうした?大丈夫か?」と問いかけてきたが、「ん」と曖昧な返事を返すにとどめた。そんな僕の態度にやきもきしたのか、父は「入るぞ」と言うやいなや勝手にドアを開け、部屋に入ってきた。ずかずかとベッドの脇までやって来て、僕に体温計を差し出した。黙って受け取り計ってみると、三十八度近い熱があった。父は薬飲むかと訊いてくれたのだけど、僕は「ひと眠りすれば治るから、ひとりにしてよ」と言って、父を部屋から追い出した。
どうして父に対してこんな態度を取ってしまうのか、自分でも不思議だった。九歳の時からのふたり暮らしだ。争うと面倒だから、できるだけ自分が妥協して、穏やかな生活に波風を立てないよう努めてきた。多少腹の立つことがあっても、ひとつ深呼吸をして流すようにしていた。反抗期になっても、父の言動に無関心でいればきっとどうにかやり過ごせるだろう、と思っていた。それなのに、今日はこんなにいらいらしてどうしようもない。落ち着くことができない。きっと熱のせいだ。そう思うことにした。自分の心に起こり始めた変化にきちんと向き合うだけの勇気を、僕はまだ持てなかったのである。
僕が自分で言った通り、翌朝には熱は下がっていた。しかしまだ多少ふらふらするので、大事をとって学校は休むよう父に言われた。もう大丈夫だと言いたかったが、昨晩の父に対する態度を思い返すと、これ以上逆らうのは避けたいところだった。結局言うことをきいてベッドに横になっていたが、睡眠は十分とってあったので眠れそうになかった。暇を持て余してテレビをつけたが興味をひかれず、CDラックを覗いても聴き飽きたものばかりが目に付く。手持ちぶさたでどうしようもないので、僕は外へ出かけることにした。マンションから外に出ると、相変わらず空は青く、陽射しは眩しかった。しかし、さすがに九月に入っただけのことはあって、少し風が涼しくなってきたような気がする。そういえば蝉の声ももう聞こえない。
近所の団地を突っ切って、公園へ出た。思ったよりたくさんの人がいてびっくりする。僕は木陰の目だたない位置にあるベンチに腰掛けて、何を見るでもなく公園の風景を眺めていた。
どうしてこんなふうになったのか考えてみた。
いくら考えても、どう考えても、頭に浮かぶのは数日前に会った母の姿だった。チェリーの模様が散りばめられたノースリーブのワンピースを着て、化粧をして、若作りをして。一回りも年の若い夫を意識してのことなのだろう。父の、「今は俺の女じゃないよ」という言葉が思い出された。確かに、今は父の女じゃない。あれは別の男の物だった。
ぎゅっと目を瞑ってみたが、脳裏には伏せがちにした母の赤い瞼が張り付いたままだった。ふと足元に気配を感じて下を見ると、二、三歳の子どもがきゃっきゃとアリを追いかけていた。僕は足を伸ばして土を盛り、アリの行く先を塞いでやった。すぐに子どもがアリに追いついた。子どもは、土の山を這い登り始めたアリに足裏を向けた。土の山は崩れたが、子どもがおそるおそる足を浮かせて見ると、アリはどういうわけかまだピンピンしていて、素早い動きで僕の股の下へ入り、姿が見えなくなった。子どもはがっかりした様子で僕の足元に座り込んだ。視線を感じて顔を上げると、子どもを追ってこっちに歩いてきた母親が、僕に不審そうな目を向けていた。こんな若い子が、こんな時間にこんな場所にいるなんて、一体どういうこと?
僕はその無言のプレッシャーに耐えられず、ベンチから立ち上がって家に戻った。真っ昼間なのに、陽の射さないマンションの玄関は薄暗かった。僕の今いられる場所は、結局この家の中だけなのだった。そう思うと、余計に気が滅入った。無性に母を恋しく思った。
最終更新日:2003.10.10
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