雲よりも遠く


【3】 

 二学期は順調に過ぎていった。特に大きな事件も事故も起こらなかった。夏休み前と変わったことといえば、友達が出来たこと、だろうか。これまで僕はどちらかというと一匹狼でやってきたというのに、どういうわけだか、橋本さゆりとはあれ以来親しくなっていた。いろいろと話すようになってから知ったのだが、彼女もどうやらひとりでいるのを好む方らしい。それなのに、僕らは不思議とウマが合うのだった。
 もうひとつ、夏前と違うことがあった。しかし僕はあまりそのことについては考えたくなかった。……父のことだ。僕と父の関係は、明らかにぎくしゃくしていた。
 僕は別に、父とのふたり暮らしをわざわざぶち壊そうと思っていたわけではない。ただ、近頃なぜか急に母の顔が見たくなることが多くなった。その度に、考えたくないけれどどうしても考えてしまった。どうして父は、去っていく母を引き止めておくことができなかったのか、と。
 父と母がまだ夫婦だった頃のことを覚えている。彼らは仲が悪いようには見えなかった。でもきっと、ずっと前からもう男と女の関係じゃなかった。母には愛人がいた。僕ははっきりとそれを認識していたわけではないが、ぼんやりとは知っていた。結局母は、父のではなく、愛人の女になる方を選んだのだ。
 父は僕に何も語らなかった。僕には父の考えていることが理解できなかったので、まず自分で行動を起こして、その結果を見て事態を把握するという方法しかなかった。母に会いに行ったのも、そういうことのうちのひとつだった。
 八月の終わりの日に母を訪ねて以来、二ヶ月近くが経とうとしていた。その間何度か母にまた会いに行こうかとも考えたが、「父との関係を余計こじらせることになるのではないか」と思うと気が萎えてしまった。
 学校では、文化祭が近づいてきて、準備に追われる日々が始まっていた。
「『私の目の前にカーテンがかかっているように、世界を見ることができた』」
 その日僕らは――僕と橋本さゆりは、生活環境委員として、文化祭の準備のために教室のカーテンを外す役目を押し付けられていた。クラスの大半が教室の外で作業していたため、いつもより周りが静かだった。窓の外は秋晴れで、校庭の落葉樹もすっかり色づいている。僕は椅子の上に乗ってカーテンの留め具を外しながら、ふと思い出してその言葉を言った。
「なに、それ」
 相棒は落ちてくるカーテンを椅子の下で受け取めながら、首をかしげた。僕は窓から目を離さずに答えた。
「マグリットの言葉だよ」
「マグリットって、画家の?」
「そう。今のは『美しい世界』っていう絵に寄せたやつ。中学の美術の教科書にも載ってなかった?」
「絵は載っていたかもしれないけど、タイトルまでは思い出せない。よく知ってるね。マグリット好きなの?」
「うん。中学の美術で習った時に一目で惚れ込んじゃって。それ以来ファンなんだ」
「ふうん。『美しい世界』ってどんな絵?」
「下のほうに青い台みたいな平面があって、その上に二枚の束ねたカーテンが左右に一枚ずつあって、その二枚の間に、葉のついた青りんごとカーテン型に切り抜かれた空が描かれている。背景は青い空で、白い雲がたくさん浮かんでいるんだ」
「ああ、それなら見たことあるかもしれないわ。以前うちのカレンダーにそういうのがあった気がする。確かにきれいな絵よね。……今日もよく晴れてる」
「うん。だからマグリットのこと思い出したんだ。空ってさ、見ていると気持ちが大きくゆったりしてきて落ち着かない?」
 僕が求めた同意に、彼女は応えなかった。
「私は、曇り空が好き。今日みたいな空はあんまり好きじゃないなあ。こんなに晴れ渡って雲ひとつないなんて、きれいすぎて、逆に何かに騙されてるんじゃないかって気がしてくるの。私には美しい空ほど嘘っぽく見えてしまう」
 意外な答えに言葉を失くしていると、彼女は悪戯っぽく笑って付け足した。「私が疑り深くて嫌な奴ってことに、ようやく気づいた?」
 僕は慌てて首を横に振った。
「……さゆりは嘘が嫌いなんだね」
「別にそんなカッコイイことじゃないけど、まあ、そうね。気に障った?」
「そんなことないよ」
 僕は、彼女が思ったことをそのまますっぱり言う性格で、その言動に嘘がないとわかっているから、安心して付き合えるのかもしれない。生真面目そうな目元以外、特にこれといった特徴のない普通の子だけれど、彼女と一緒にいるのは悪い気分じゃなかった。
 その日の夜は、空に星も月もない、漆黒の闇夜だった。僕は深い泥の川沿いを走っていた。といっても道らしい道はなく、泥に足をとられてなかなか前に進まなかった。それでも川上を目指して、息を切らして走っていた。やがて少しずつ川の幅が狭くなってきたので、僕は水源が近いことを悟った。僕はよりいっそう懸命に走った。
突然目の前が開けた。しかしそこは月明かりに照らされた僕の部屋だった。一瞬何が起きたのかと思ったが、僕は今まで夢を見ていたのだと気づいた。文化祭の準備で帰りが遅くなり、夕食をとった後すぐにベッドで眠ってしまったようだ。起き上がり、リビングに行くと父がテレビを見ていた。
僕は出来るだけ静かな口ぶりで父に話しかけた。今日はちゃんと話をしようと思った。
「父さん。僕、母さんを文化祭に招待しようと思ってるんだ。別に、いいよね?」
 父は振り返らなかった。しかしその背中は心なしか震えているように見えた。
「父さん。答えて」
「そうしたいならそうすればいい」
 いつもと違って語気が荒い父の様子に、僕は面食らった。
「まだ気づかないのか、お前は。それとも見て見ぬフリをしているだけなのか?今母さんに会っても、お前の望む通りにはならないんだよ」
 思ってもみない言葉に、愕然とした。軽微な罪で起訴されたはずなのに、いきなり死刑宣告を言い渡された被告みたいな衝撃を味わった。僕は何も言えずに部屋に引き返した。父さんは、気づいていた。わかってたんだ、僕が望み続けていたものが何なのか!
 父は僕が母に会って傷つくだろうことがわかっていた。だから、父は僕が母に会うのにいい顔をしなかったのだ。僕を傷つけまいとして。やっと得心がいった。
 ふつふつと、心の底からどす黒く熱い怒りが湧き上がってくるのを感じた。それは父に保護されていることに気づきもしなかった弱い自分に対する気持ちでもあったし、余計な気を回す父に対する気持ちでもあった。僕は受けたショックで眠れそうもなかったが、いつのまにか疲れからか浅い眠りに落ちていった。僕は先程の夢の続きを見た。
目の前が開けて、水源が見えるはずだったそこは、しかし街中の広場だった。レンガ敷きの広い空間に出て、僕は足が急に軽くなったのを感じた。ここもやはり暗かった。街灯の光がぼんやりと遠くに滲んで、広場を囲む建物の暗い影をうっすらと照らし出していた。
 僕は急に方向感覚を失って、自分がどこへ向かうべきかわからなくなった。右往左往しているところで、一本のこうもり傘が目に留まった。一体どこから降ってわいたのか?疑問に思って見ていると、そのこうもり傘はだんだん大きくなっていくように見えた……、いや、こちらに近づいてくるのだ。どんどん、どんどん。
 こうもり傘がぱっと身を翻した。こうもり傘の下に、黒い人影が隠れていた。その人影は素早い動きでこうもり傘を畳むと、フェンシングのような突きの構えで僕に襲い掛かってきた。何も考える余裕などなく、僕は必死でそれをかわした。黒い人影はバランスを失って、僕の今までいた辺りにどっと倒れこんだ。すぐに振り返ったその顔――どういうわけかその時だけそこにスポットライトが当たったように、僕にはその人物の顔が見えたのだ。その顔を見て僕ははっと息を呑んだ。それはあまりにも見慣れた顔だったので、逆にわけがわからなくなった。
 父さん?
 それは確かに父の顔だった。恐ろしい形相で僕を睨みつけていたけれど、見間違うはずはない。父さん、父さんどうしてここに……?
 父はすぐに立ち上がって、再び突きの構えをとった。僕はびっくりして一歩後ずさりしてしまった。父は容赦ない勢いで僕のほうへ踏み出す。
 僕は父に背を見せて広場を逃げ回った。どこにも出口はないし、父はどこまでも僕を諦めずに追いかけてくる。絶望的な気持ちになりながら、僕はただひたすら逃げ続けた。こんなんじゃ埒が明かない。そう思った時、父がふいに後方から傘を投げつけてきた。それは僕のわき腹をかすったが、痛みは感じなかった。僕はただ必死で傍に落ちた傘を拾い上げた。そのまま先端の尖った方を父に向ける。父は構わずに素手を振り上げ僕の方へ駆けてくる。そうして僕は……
 僕は、両目をぎゅっと閉じて、意味のない叫び声をあげながらそのまま前進した。ぶすっと、傘が肉に刺さるのを感じた。僕は目を開けなかった。引き抜いて、もう一度。もう一度。もう一度。その作業は永遠のようだった。いつのまにか降り出した暗い雨が、刺すように僕の身を打っていた。
 息苦しくなって目が覚めた。辺りは夢の中と同じように暗闇が支配していた。全身にじっとりといやな汗をかいている。時計を見ると、夜明け前だった。僕はそのまま頭を抱えてしまった。
(なんて夢を僕は見てしまったんだろう)
 金属の硬い柄を握った感触が、まだリアルに残っていた。今しがたまで何かをきつく握りしめていたかのように、両手の指が緊張して強張っている。手を見つめていると、体が小さく震え始めた。顎に生暖かい感触を感じてそっと触れてみると、涙がとめどなく溢れているのだった。
(もう限界だ)
 僕はこの部屋で、世界で一番小さい存在になって、誰にも気づかれずに声をあげて泣き出したかった。でもそれよりも強い衝動が僕の芯から湧き起こって、胸を激しく揺さぶった。
(この家を出よう。もう暮らせない、これ以上父と暮らしていく自信なんてない)
 行くあてがあるわけではなかった。どこに行ったって僕はその場に似つかわしくはないだろう。不審がられ、けむたがられるのがオチだ。そんなことは十分わかっていた。でも、それ以上に僕がこの家にいることは不可能だと思った。僕は今こそ直面したのだ。自分がどれほど父を憎く思っていたのかということに。恐ろしかった。自分の中の、いつ暴れだすとも限らない醜い感情が恐ろしかった。もう気づかないフリをしていることはできない。一刻の猶予もなかった。僕はベッドから抜け出して、手ごろな大きさの鞄に必要最低限のものを詰め込んだ。書置きは残さなかった。何か一言でも書いたら、今手に入れた真実がすべて嘘になりそうだった。
 気づかれないように、玄関ではなく窓から抜け出すことにした。ベランダ沿いに行けば非常口がある。そこから下に降りればいい。
 窓をそっと開けると、吹き込んできた夜風が冷たかった。しかし思っていたよりも外は明るかった。ひとつの月と二、三の星が見えれば、都会では十分だ。僕は少しだけ足に力を込めて、窓の桟をまたぎ越した。
-了-
最終更新日:2003.10.10

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